太田三郎の『武蔵野の草と人』から
太田三郎の『武蔵野の草と人』の冒頭には、こんな言葉が出てきます。それは
「狭山の丘の興趣は、丘陵と丘陵との間の、あの意外によく開けた広い街道をた
だ歩いただけでは殆ど何も得(ら)れない。」と記されています。
つづいて、「またそこにある物部天神だとか中氷水(川が正しい)神社だとか、
山口観音だとか、勝楽寺だとかいった社寺、匂わしい過去を持ちながらしかもす
こぶる浅露な姿の現在にあるそれらの社寺を見たゞけでも一向につまらない。」
と書いています。
そして「それだけならば、いっそ武蔵野鉄道の窓の中から、南に連なるあの丘
陵を長く望んで、そこに美しいイマジナションを、ほしいっまに懸げながらただ
過ぎって行った方が優っている。」と言い切っています。
また、「けれども今の狭山にはまた、今の狭山の面白味があらねばならない。
ある日私は、再びその丘陵を訪れて、いわゆる見物の心を全く離れて、丘陵の尾
根の森林の中を、名も知らず処も知らずたゞ漫然と迷って歩いたことによってそ
れを獲得した。」と敢然と言い切っています。
90年も前に、ものの理解について、その深遠な悟りの様な境地を語っているの
です。今日の日本人の様に、思考の深淵なところを人任せにして何の疑問も感じ
ない浅薄さとは、似てもつかない、ものへの接し方であったことに驚きます。
彼は、「西所沢の方から、小手指ケ原を横切って行って、やがて会ったやや広
い通、所沢から箱根が崎のほうへと狭山の北麓を走っている道を切って、そうし
て丘陵の奥へと入って行った。」ようです。
かれは、「目的のないまったくの歩行のための歩行には、ことさらに道を聞く
必要もなかった。只およその見当をつけて地図を頼りに西へ西へと辿って行った。
宇津の山路ではないけれど夢にも人に会わなかった。」ということです。
また、「椚や松やその外の樹の密生した林叢の中には、見通しと言うものが、
まったくなかった。かなりに高いところを歩いているはずであるけれど、それが
どの程度であるかも一向に分からなかった。」とも言っています。
埼玉県所沢市 狭山丘陵八国山山麓 2010/04/22撮影