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菜の花の沖では!読むごとに新たな発見が!

「菜の花の沖」の箱館の巻では、新造船の辰悦丸を操って、はじめて、高田屋嘉兵衛が蝦夷地へ航海し、福山即ち松前の港に停泊した頃の城下の様子を書いています。この 部分が真実なのか、作者の創作なのか、分かりません。

 ここで、目を引いたのは、作者の司馬遼太郎が、作中に幕府の旗本御勘定方の高橋三平を登場させ、その三平と嘉兵衛が夜ごとに三平の宿所で話を交わす場面を設定しています。寛政8年(1796)のことです。この二人が、松前藩における「抜け荷」についてやりとりしている下りは面白く、読者に「おやっ」と思わせるのですが、それが、ここでは、何の問題にもならずに終わります。

 そのあとに、司馬遼太郎は「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ)をとりあげています。簡単に説明すると、これは、幕府を構成する諸氏の系図集です。大名、旗本等の諸家の系譜が編集されています。今で言うなら、官庁の職員録にあたるものでしょう。

 もともと、徳川氏が征夷大将軍の職について、ほど無い寛永年間に、諸氏より書き上げを提出させて、編集した「寛永諸家系図伝」がありますが、それを校訂するかたちで、あらたに「寛政重修諸家譜」を編纂したものです。

 これに習って、各藩でも配下の士族の系図を編纂しています。たとえば、水戸藩では、「水府系纂」(すいふけいさん)がこれにあたります。ここでは、藩士だけではなく、郷士の系図や記録も提出させて編纂しています。

 そこで、高橋三平について、「寛政重修諸家譜」で、調べてみると、  高橋重賢(しげかた)   吉之丞 三平 母は利秋が女   寛政九年十二月二十八日御勘定(方)となる。時に四十歳。妻は稲子平蔵正羽が   女  と出ています。

 しかし、蝦夷地へ赴いたのかどうかは、この系譜からは、わかりません。ただ、その名が重賢(しげかた)だと言うことは分かります。この三平は、寛政8年にはまだ無役であり、御勘定(方)となるのは、その翌年と言うことになります。

 「菜の花の沖」では、高橋三平は、「部屋住みがながかった。ただし、去年の春、とくに普請役見習いという役をもらい、勘定奉行の命令ということで、蝦夷地の民情と物産の調査にきている。」と記されています。

 不勉強で、寛政重修諸家譜意外に記録があるんかどうかわかりませんが、興味深い事です。機会があったら、調べてみたいと思います。

 「菜の花の沖」では、高橋三平と函館で会った、その次の年、寛政十年(1798)に、高田屋嘉兵衛は、高橋三平の紹介で、三平の上司に当たる、勘定吟味役の三橋藤右衛門に会い、函館からアツケシ(厚岸)まで、公儀御用と言うことで、米穀を運んでいます。

 この三橋藤右衛門については、寛政重修諸家譜巻第千九に、つぎのような記述がありました。

 三橋成方(なりみち)   鉄作 藤右衛門 実は萩原藤七郎友明が三男。母は某氏。   成烈(なりてる)が養子となり、その女を妻とす。明和七年五月十五日はじめて浚明院殿(徳川家治)に拝謁す。寛政三年十月十七日大番に列し、十二月二十九日遺跡を継。時に四十一歳、采地四百石。四年六月二十一日御代官となり、六年六月九日職を辞し、七年十二月十一日小普請の組頭となる。

  八年三月八日御勘定吟味役にすすみ、十二月十九日布衣を着することをゆるさる。十年四月朔日さきに露西亜の船来りしにより、今年もあらかじめ其事を議るべしとの仰をうけて、渡辺久蔵胤・大河内善兵衛政寿とともに松前におもむく。妻は成烈が女。後妻は田辺清右衛門庸広が女

 

 この記述から見ると、三橋藤右衛門は、名を成方(なりみち)といい、寛政8年3月8日に勘定吟味役に成っています。寛政十年四月朔日命を受けて、渡辺九蔵、大河内善兵衛らと松前へ出向いています。従って、嘉兵衛と出会っても不思議ではありません。

 続徳川実紀第一編、寛政十年四月朔日の条には、「目付渡辺九蔵糺(胤)、遣番大河内善兵衛政寿、勘定吟味役三橋藤右衛門成方等、松前表のこと奉はりて暇たまふ。所属の吏もおなじ。」とあります。これによっても、松前へ三橋藤右衛門、渡辺久蔵胤・大河内善兵衛らが出向いたことが分かります。

 今日は「菜の花の沖」を読んでいて、「寛政重修諸家譜」に出会い、「おやっ」と思いました。上に書いた、「寛永諸家系図伝」よりもっと古いものには、「尊卑分脈」というものもあります。普段調べるのに手頃なものには、「群書系図部集」があります。

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